(15-15) FLAGELLATION OF CHRIST (部分) / 紙、鉛筆 / 58.4×81.5cm / 2015年
山田純嗣
2015/11/14(土) 〜 2015/11/28(土) 13:00〜21:00 水曜休
Artist Comment
「なぜTVドラマの主人公の様に自分の姿を見る事ができないのか?」物心つくかつかないかの頃、いつも私が疑問に思っていたこと。自分以外の世界はTVの中と同じ様に見えているのに、私は世界の中で来る日も来る日も自分のままで、自分の姿だけ空白なことに、もどかしさを感じていた。
絵画において、モダニズム以前の神を中心とした物語を描いてきた作品では、絵画の中はTVドラマの様に、観者に向かって演じられてきた。それは、レオナルドの《最後の晩餐》が、まさにTVドラマの食卓と同様に、見る側に背を向けて座る人物がいないことを思い浮べるまでもない。絵画の中で演じられる情動的な世界には、「私」という一人称はない。唯一、あると思われる自画像でも、その主人公の「私」は一人称ではない。「私」は外在化され、三人称と同様に「私がここにいる」とさらけ出されている。クールベの自画像として描かれた《傷ついた男》は、そのことを顕著にあらわしている。クールベは自画像ですら「私」を描けないことを自覚し、自分の目をつぶった姿を描くことで、「私」ではなく、「無防備さ」の中にリアリズムを見出し、モダニズムの扉に手をかけた。私という、最も身近でありながらわからない存在を意識化するには、さらけ出し外部化する必要があるのである。
クールベの前衛を引き継ぎ、絵画の中から、あらかじめ存在する神という中心を排除することから始まったモダニズム以降の絵画では、そこにある絵画を成り立たせる物質的視覚的要素に重点を置き、あらかじめ用意された情動的な物語は排除された。そのことで「私」は外在化せず、絵画そのものが「私」と同一の一人称となった。絵画の自律である。しかし、それを見るということはどういうことだろう。一人称を外部から見ることは、観者にとって、絵画は相変わらず三人称で、私や情動が空白な、私から見える世界である。
しかし、どちらにしても共通するのは、絵画は見る運動の中にしか存在しないということ。その運動が無ければ、絵画はただのシミの付いた板でしかないということは、物語が描かれていようが、抽象だろうが共通である。私は見る運動を信じていると同時に、描くことも運動の中にしか存在しないと信じている。あらかじめ用意されたものではなく、不可逆なものとしての描く行為。意味から切断された「無防備な」没入こそ、運動を発生させる。没入には空白が在る。空白は事後的に認知されるもののようであるが、没入している運動の中にすでに存在している。意味以前の無防備な没入の運動は、この世に意味を持って生まれてきた人がいないことと響き合い、空白と世界に触れることができる唯一の手段なのだと信じている。
山田純嗣 | Junji Yamada